「ハートは今ここにある!Wow」
僕自身がもっとも好きな曲BOØWYの「Dreamin’」でスタートした氷室京介のLAST GIGS@ライブハウス東京ドーム。ヒムロックのアーティスト人生最後となるライブツアーの最終日で文字通り、完全燃焼してきた僕(@ka__zz)です、こんにちは!
大きな満足感と共に「ライブでヒムロックを観られるのはもうないのか・・」という、今回ライブに参戦した人ならみんなが抱いたであろうこの感覚。ヒムロックの声とビート、そして諸行無常という言葉のエネルギーが僕の中に流れています。
2016年5月23日。氷室京介、最後のライブ「LAST GIGS」参戦レポート。
(ライブ前に腹ごしら、新宿のMr FARMERにて)
初めてヒムロックの歌声を聞いたのは、僕が18歳の頃・・
隣部屋の妹がある日、BOØWYのアルバム「BEAT EMOTION」を爆音でかけた音が、僕の部屋まで響いてきたのを「うるせーな」と思いつつ聴いたのを思い出します。
たしか週刊少年ジャンプを読んでました。北斗の拳やドラゴンボール、キャプテン翼、シティーハンター(笑)
その後、妹はBOØWYと同じ群馬県高崎出身の”BUCK-TICK”にハマり追っかけになり、その代わりに僕がBOØWYにハマったのはフジテレビの深夜番組で山田邦子と渡辺徹が司会をした”いきなりフライデーナイト”のオープニング曲で「Justy」が流れていた時期からです。
その後の大ブレイクについては皆さん周知の通りで、特に地元群馬の盛り上がりはものすごいものがありました。
ところが・・
ヒムロックの凄さとは・・
絶頂期を迎えた1986年12月24日のクリスマスイブ、渋谷公会堂で行われたライブで解散を発表。当時、”ライブを観に行く”という発想がまったくなかった僕は、結局一度も生でBOØWYを体験することなく終了。
その後、ソロになったヒムロックと布袋寅泰のアルバムをそれぞれ聴いたりライブに行ったり・・直近だと、2011年の震災後に行われたヒムロックの全曲BOØWYの復興支援ライブ。
ステージの装飾や電飾を最低限にしてコストを抑え、チケットおよびグッズの売り上げ金を全額寄付するという、あまりにもかっこよすぎる偉大なライブでした。僕が、ヒムロックに惹かれる理由は、これなんです。
もちろん音楽も素晴らしいのですが「人としての生き方」なんですよ。
今回も、耳が不調となり、満足なパフォーマンスができないとわかった時点で「LAST GIGS」を行い表舞台から引退するという潔さ。そして、また自分がやれる精一杯の活動をしていく・・
布袋寅泰とは対照的な、不器用なまでの愚直さ。
それが氷室京介の魅力だと思います。
午後5時15分、東京ドームの雰囲気。
通常のライブは、もっとシンプルな高揚感がただようものです。
しかし、この日は氷室京介のアーティスト人生で最後になるライブ・・みんなそれを分かって東京ドームに集まってきています。祭りが始まる前の楽しさと一緒に、どこか寂しさというか切ない空気感に包まれていました。
誰もが、今日で氷室京介のライブが最後になる・・という思いを抱きながら、でもそれを押し殺して会場の中に入っていく様子はどこか神聖なものを感じました。
楽しいのに悲しい。
両極にあるこの感情を同時に味分ける体験はそうありません。
しかも35年分の思い出と一緒になんて。
ここで白状をしてしまいますと、
ヒムロックの熱狂的なファンだったわけではありません。CDを買っていたのは15年ほど前までですし、ライブも数えるほどしか参加してませんし。みんな黒いヒムロックTシャツを来ていましたが僕はグローバルワークで買った白いシャツのままでした。
ではなぜ、ライブに参戦してわざわざこの記事を書いているかというと・・
BOØWY、そしてヒムロックが僕の仲間たちの中で共通言語だからなんです。今回一緒に参加した27年の付き合いになる先輩もそうですし、入手困難なこの日のチケットを取ってくれた3年前に知り合った友人もそう。
さらにいうと、去年料理教室で知り合った友人。あとから知ったのですが、この日わざわざ地元京都からやってきてライブに参戦しており、その後facebookでやりとりをして感動を分かち合うことができたのです。
そしてさらにライブ終了後、東京のはずれにある小さな宿にチェックインして大浴場に入ったら、3人いたのです先客のおじさんたちが。気持ちよくお湯につかってライブの疲れをとっていたら、なんとその人たちもLAST GIGSに参戦したらしくBOØWYの思い出話に花を咲かせており、僕もまじって大いに盛り上がったのでした。
(開演30分前の東京ドーム、二階席にて)
BOØWYが共通言語である理由
なぜ、BOØWYが共通言語になり得たかというと、僕らの青春時代って、現在のように音楽の幅が広くなく、娯楽も限られていました。さらに、インターネットもありませんから情報源といえばテレビと雑誌しかありません。
そんな背景で、日本の音楽シーンに突如旋風を巻き起こしたBOØWYは、僕らにとって時代のシンボル的存在でした。そして、先に書いたように絶頂期での解散があまりにもインパクトが強く、そして満たされきれなかった喪失感を抱えたまま僕たちは大人へなっていく過程で、常にBOØWYという存在と楽曲が身近でありつづけたのです。
逆をいうと、現在はバラエティに飛んだ選択肢がたくさんありますがその反面、誰かと盛り上がる共通点を探すのにとても苦労します。そんな意味で、BOØWYという現象と音楽が、僕らの世代にもたらした功績というのは「共通の思い出がコミュニケーションの距離がいっきに近づく」ということに他なりません。
ヒムロックや布袋寅泰がバリバリの一戦で活躍をしていることも、ただの思い出話ではなく、リアルな現在進行形のエネルギーとして、僕らはBOØWYを体験できるのです。
LAST GIGSの最終日は全35曲、時間にして3時間あまり。
スタートからラストまですべてがヒムロックでしたよ。LOVER’S DAYで泣き、PLASTIC BOMBで弾け、NO NEWYORKで大合唱して、全身全霊でライブを楽しむことができました。
氷室京介が僕たちの前で歌った最後の曲はBOØWYの”B・BLUE”。
「乾いた風にかき消されて・・」
偶然にも30年前、妹の部屋から流れてきた最初の曲がこのB・BLUEでした・・
ヒムロックは最後までこのライブが最後であることに触れず、別れの言葉も一切なく、いつものようにライブを終わりました。そんな中、MCで60歳になったら新しいアルバムを出す?!と冗談を交えながら語っていました。
去り際のいさぎよさ、今回もヒムロックらしい美学を貫いた最後・・
ライブが終わって東京ドームを去る時に目にした言葉
「俺たちは氷室京介を卒業できない」
会場にいたみんなの気持ちを代弁するかのような言葉でした。
しかし、現実を受け止めるならば今回のLAST GIGSが最後の表舞台となります。今までのヒムロックの言葉がくつがえったことはありませんから。
それでも、僕たちのハートの中で永遠にヒムロックの歌声とビートがなりつづけることでしょう。